『ヘアスプレー』を見て思ふこと
夜は『ヘアスプレー』というミュージカルを観にいきました。60年代のボルティモアが舞台。明るくてダンス好きの白人のでぶっちょの女の子がテレビのダンス番組で人気者になるものの、差別や偏見の中で苦しみ、最後は打ち克っていくというストーリーです。数年前に映画化され、ジョントラボルタが女装して話題になりましたが、その元となったコメディミュージカルです。主人公の女の子の明るさと、ダンスの切れに乗せられてとっても面白くみることができました。ただ、見た目の軽さとは裏腹に、人種問題をテーマに取り上げておりなかなか考えさせられる面もありました。
差別問題を歌って踊って面白おかしく、って結構難しいんじゃないでしょうか?最後は黒人を差別していた白人達が貶められているのでバランスは取れているんですが・・・。途中では逆のシーンが多くて、たとえば60年代はテレビに黒人は出演が許されていなくて、唯一“ニグロナイト”にだけそれが許されていました(舞台でニグロという単語を使うのも驚きですが)。黒人のダンスのすばらしさを知っている主人公の女の子がテレビ収録中に「毎日ニグロナイトにしたらいいのに?」という問題発言をしてしまい、現場の白人達は大騒ぎ・・・。というシーンをみんな大爆笑して見ているのですが、その観客はみんな白人。黒人はまずいません。黒人が見たらどんな気分なんだろう?演じている黒人役者はどんな気分なんだろう?そして、自分たちの過去の行いを一片の後ろめたさもなく笑い飛ばせる彼ら(白人)の精神構造とはどうなっているのか?と気になってしまい、100%入り込めない自分がいました。日本に置き換えて見て、戦時中の舞台等確かに過去の差別問題を取り上げるシーンはありますが、見ている自分としては心に重いものを感じますし、ましてやコメディにして笑い飛ばすなんて想像もできません。彼らの中では今も明確にそうした考えが残っていて純粋に見下して楽しんでいるのか?それとも全て消化しきって、過去のこととしてきれいさっぱり忘れてしまっているのか?僕は世の中そんな単純なものではないと思うので彼らの考えはやっぱりわかりません。
人種問題については非常に難しいのであまりはっきりしたことはいいたくないし、断定するつもりもありませんがあくまで自分が感じたことを。今の会社の中にも黒人はいますし仲良くやっているように見えます。ああ、これがテレビで見ていた自由の国アメリカだな~と思うわけです。でも待てよ、テレビの枠(黒人が白人と仲良くしている光景)を広げてみて、左を見て、右を見てよくよく考えると、そこには白人しかいないんですよ。つまり比率でいえば95%白人で、5%が黒人やその他人種。それって平等(少なくとも機会均等)であるはずないですよね?一方、オフィスを一歩出て隣のマックに行くと、従業員は全員黒人です。ビル内外のこの差を見せられて何も感じないわけありませんよ。黒人従業員はまったく夢も希望もない目をしていて、仕事がいやでいやで仕方がない様子。当然、サービス精神のかけらも持ちあわせていません。そして、彼らが私に向ける目もまた差別的なものです。ストレスを感じている人間は、一方で加害者としてストレスをぶつけることで精神の健全性を保とうとするのでしょうか?
一方、普段白人社会にいると、こころの底でどう思っているかは知りませんが(たぶん我々に興味がないのか、アメリカ的正義感に満ちているのか、のどちらかの人が多い気がします)、少なくとも差別的なことで不快な思いをすることはありません(今のところ)。
この2つのギャップはなんなんでしょう?百年前の外相小村寿太郎の回想で「ハーヴァードに留学していたとき、白人から不快な思いをすることはなく、むしろ敬意をもって接してくれた。これがアメリカなんだと思っていたら、労働者階級の考えはまったく別物らしい。アメリカは複雑な国だ」と語っていたことを思い出します。要は百年前からず~っと変わらず続いているギャップなんですね。時代は変われど、根っこは変わらないってことなんでしょうか。自由の国?アメリカンドリーム?つっこみたいことは色々ありますが、今日はこの辺にしておきます。

コメント